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壬生狂言について

壬生狂言は、正しくは「壬生大念佛狂言」と言います。「壬生さんのカンデンデン」という愛称と共に、古来から京の庶民大衆に親しまれてきました。この壬生狂言は今から700年前の鎌倉時代、壬生寺を大いに興隆した円覚上人(1223~1311)が創始されたものです。

  • 壬生狂言のはじまり

    当時、円覚上人(えんがくしょうにん)の教えを来聴する大衆が数十万人にも及んだので、人々は上人を「十万上人(じゅうまんしょうにん)」と呼んでいました。上人は、正安2年(1300)、壬生寺において「大念佛会(だいねんぶつえ)」という法会を行いました。この時に上人は、拡声器とてない昔、群衆を前にして最もわかりやすい方法で仏の教えを説こうとしました。そして、身ぶり手ぶりのパントマイム(無言劇)に仕組んだ持斎融通(じさいゆうづう)念佛を考えついたのです。これが壬生狂言の始まりと伝えられています。

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    壬生三面

  • せりふを用いない宗教劇

    近世に入ると庶民大衆の娯楽としても発展し、本来の宗教劇のみならず、 能 や物語などから色々と新しく取材され、曲目やその数も変遷して現在上演されるものは、30曲です。しかし、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる壬生狂言の形は変わらず、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残しています。

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    炮烙割り

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    紅葉狩

  • 春の壬生大念佛会

    壬生狂言の春の公開「壬生大念佛会」は、壬生寺の年中行事の法要であって、狂言は本来この期間、朝・昼・夜の勤行(ごんぎょう)のうちの昼の勤行として、壬生大念佛講が、壬生寺の御本尊である延命地蔵菩薩に奉納するものです。この法要は正安2年以来、約700年間も途絶えること無く、連綿と続けられてきたのです。その宗教性を皆様に理解していただくために毎年最終日の夜の部において「結願式(けちがんしき)」の公開を行っております。

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    花盗人

  • 秋の公開と節分の公開

    秋の公開は、もともと臨時的に行われていたもので、明治4年を最後に103 年間も途絶えていましたが、狂言の発展や後継者養成のため、昭和49年に復活されました。 以来、秋の特別公開として、毎年特に人気の高い番組を上演しています。
    節分の公開は、春の大念佛会のさきがけとして、さらに壬生寺節分会(せつぶんえ)の参詣者の厄除・開運を祈願し、壬生狂言の『節分』を繰り返し上演するものです。

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    節分

  • 重要無形民俗文化財

    時代が変わり、近年は民俗文化財としての評価が高まり、昭和51年に国の重要無形民俗文化財として、京都府下では第一番に指定を受けました。また、狂言を演ずる大念佛堂(狂言堂)は、安政3年(1856)の再建ですが、綱わたりの芸をする「獣台(けものだい)」や鬼などが飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ、他に類例を見ない特異な建造物として、 昭和55年に国の重要文化財として指定され、 昭和58年から2年半にわたり解体修理が行われました。その他、収蔵する仮面は室町時代から現代の作まで、約190点あり、衣裳・小道具は江戸時代のものを含めて数百点を数えます。近年、それらの保存や復元が年々難しくなる傾向にある中、その事業は着々と進められています。

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    狂言堂舞台 重要文化財

  • 壬生大念佛講

    この壬狂言を伝承して演じるのは、「壬生大念佛講」の人達です。
    講員は、壬生狂言がその職業ではなく、会社員、自営業などの本職をもち、小学生から70歳台の長老まで、おもに地元に居住する約35名(「衣裳方(かた)」と呼ばれる衣裳の着付担当者以外は全員が男性)が狂言を演じています。近年は東京、宮城、福岡、沖縄、ハワイなどからも招聘を受けて出張特別公演を行い、数多くの結縁を得るとともに識者の関心を集めています。

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    面掛

壬生狂言の年間定例公開

(春・秋・節分の3回、延べ12日間)

  • 春の大念佛会

    4月29日~5月5日の7日間
    13時~17時30分(5月5日のみ夜の部もあり:18時から20時)
    鑑賞料:大人1,000円 / 中学・高校生500円
    当日券で自由席のみです。予約、指定席はありません。

  • 秋の特別公開

    10月の連休(体育の日を含む)の3日間
    13時~17時30分
    鑑賞料:大人1,000円 / 中学・高校生500円
    当日券で自由席のみです。予約、指定席はありません。

  • 節分の公開

    2月の節分の前日と当日の2日間
    17時~20時、毎時0分開演
    壬生狂言30番のうち「節分」のみを4回上演します。
    鑑賞料:無料

壬生狂言30番の演目

PERFORMANCE

  • 1

    愛宕詣り

    京都の西北にそびえる愛宕山には火の神をまつった愛宕神社がある。参詣人は火災除けの祈願をしてそのお札を受け、台所などに貼っておく。かつては山の途中に茶店が何軒もあり、土器かわらけ投げをする所もあった。この狂言の中でも土器投げをする場面があるが、壬生狂言では土器のかわりに煎餅を投げる。これを食べると厄除けになると伝える。この狂言は、愛宕山の茶店で起こったユーモラスな話である。

  • 2

    安達が原

    安達ヶ原(現在の福島県二本松市)に鬼が住み、旅人を食べるという伝説がある。 この狂言は、阿闍梨(高僧)と山伏(山野を歩き修行する僧。修験者)が安達ヶ原の鬼を祈り伏せるというものである。
    老婆が糸を紡いでいると、旅人が一晩泊めてほしいとやってくる。老婆は愛想良く、家に招き入れる。旅人が眠ると、老婆は正体を現し、鬼女となって旅人を食い殺す。また老婆の姿にかえる。老婆はやってくる旅人や飛脚を次々と食い殺していく。 諸国を行脚する祐慶が山伏を連れてきて、老婆に泊めてもらう。山伏は眠ろうとするがどうにも眠れない。老婆の部屋をのぞき見ると、多くの死体があった。事態を知らされた祐慶は、山伏とともに鬼を祈り伏せる。

  • 3

    大江山

    京都府北部にある大江山には、昔、酒呑童子を頭目とする鬼達が住んでおり、京の都を襲っては財を奪い娘をさらっていた。源氏の大将・源頼光が家来の渡辺綱、平井保昌とともにこれらを退治するという話である。この話は『御伽草子』にあり、謡曲などにもなっている。

  • 4

    大原女

    京都の東北に大原というところがある。この地には独特の風習があり、頭に花などをのせて京都市市内を売り歩く。その行商人の女性を「大原女」という。この狂言は、大原の里へ花見に来たある金持ちの旦那とその供が、大原女の老婆にほんろうされるユーモラスな話である。

  • 5

    桶取

    壬生狂言で最も重要な曲目である。それだけに演技が難しいとされている。壬生寺の近くに「照子」という美しい白拍子がいた。しかし不幸にも生れながらにして左手の指が三本しかなかったので、来世は障害のない人間に生まれるよう壬生寺の本尊・地蔵菩薩に祈願し、毎日、尼ヶ池(壬生寺の閼伽池)の水を桶に汲んで参詣し、供えていた。これも寺近くに住む和気俊清という金持ちの大尽が寺へ参詣したとき照子を見初め、さんざんにロ説いて遂に馴染んだので、懐妊中の大尽の妻は嫉妬のあまり果ては狂死してしまう。両人は前非を悔い、壬生狂言の始祖・円覚上人の導きにより、妻の霊を慰めるために僧となり、尼となって仏門に帰依したという。狂言では何故かこの物語の最後まではなく、妻が狂乱する所までしか演じられていない。照子が桶で水を汲む所作やその足取りは、佛の種字(佛を象徴する文字)が表現されている。また照子の踊りは独特のもので「かいぐり、つばめ、つかみ」の3つの手をくり返すのである。

  • 6

    餓鬼角力

    壬生寺の本尊は地蔵菩薩である。その地蔵菩薩はいつも弱い餓鬼(亡者)の味方であり、地獄の鬼から守って下さるということを、鬼と餓鬼の相撲試合によって現わした狂言である。恐ろしい地獄の有様を描いた演目ではあるが、鬼と餓鬼とのやりとりを面白く仕立てており、楽しい雰囲気の狂言である。

  • 7

    蟹殿

    おとぎばなしで有名な『猿蟹合戦』に、『桃太郎』の話を加味したもので、勧善懲悪を説く、仇討ちの狂言である。蟹、鋏、栗、臼の主従と猿との対決が見せ場であるが、綱わたりや飛び込みなど壬生狂言独特のアクションも盛り込んだ演目である。

  • 8

    熊坂

    奥州へ旅の途中の牛若丸,(のちの源義経)の宿に、熊坂長範を頭とする盗賊の一味が襲いかかるが、牛若丸に全員成敗され、長範のみが一命だけは助けられる。前半は「ぬがされ」と呼ばれる子役が登場するほほえましい場面もある。後半は牛若丸と盗賊たちの対決が見所である。

  • 9

    賽の河原

    壬生寺の本尊である地蔵善薩が、いかに慈悲深いかを表した狂言で、壬生狂言特有のものである。閻魔の庁での閻魔の裁きや鬼の責めなど、恐ろしい場面が続くが、ユーモラスな鬼の演技が緊張をほぐし、壬生狂言の宗教劇としての優れた面を表している。

  • 10

    酒蔵金蔵

    能狂言の「棒縛り」を壬生狂言独自に作りかえたもので、いつの世にも酒と金は人間を誘惑し、いくら戒めても、酒と金による間違いは絶えないということをユーモラスに見せたものである。

  • 11

    節分

    節分とは、本来、季節の分かれ目という意味で一年に四回もあるが、一般にいう節分の日とは2月の立春の前日をいう。この日の夜、鬼が嫌うという豆を「福は内、鬼は外」と唱えながらまいて、鬼を追い払うという習慣がある。毎年2月の壬生寺節分会は、寺の最大行事で、十数万人もの参詣人で賑わうが、この壬生狂言の『節分』を節分会に繰返し上演して、参詣人の厄除招福を祈願している。この狂言は「鬼 (病気、災厄や貧困など様々な不幸)を招く甘い誘惑に負けずに、マメ(まじめに、こつこつ)に働くことによってこそ、福徳は得られるものである」ことを教えた狂言で、後家が鬼を追っ払った後は、鬼の小槌や着物も消え失せ、後家はそれが危険な誘惑であったと悟るのである。

  • 12

    大仏供養

    平家の侍大将・悪七兵衛景清は、平家の没落後、主君の仇である源頼朝を討とうと機会をうかがっていた。そして、平重衡のによって焼討ちされていった奈良・東大寺の大仏の供養に、頼朝が訪れるということを聞き付けた景清は、仇討ちを試みるが、頼朝の家来・畠山重忠に捕らえられる。この後日談として、近松門左衛門の『出世景清』などがある。

  • 13

    大黒狩

    かつて僧侶は戒律によって、妻帯は許されなかった。しかし密かに妻を持つ者があり、それが露見すると、僧侶の身分を剥奪され、寺を逐われるという制裁があった。大黒天は福の神とも呼ぱれているが、台所を守る神という性格も持ち、よく台所に大黒天を祀っているのを見受ける。こうしたことから、特にお寺の奥さんを「大黒さん」とも呼ぶ。この狂言は、この「大黒さん」を隠し持つ僧侶を戒める教訓劇である。

  • 14

    玉藻前

    インド、中国を経て日本に渡って来たという九尾の狐が、たぐいまれなる美女に姿を変え、鳥羽法皇につかえた。美女は法皇の寵愛を受け、玉藻前と名付けられた。しかし、この頃から法皇は病にかかり、様々に手当をするが一向に良くならない。そこで陰明師の安倍泰成に占わせると狐は正体を現し、那須野(現在の栃木県茶臼岳東麓)へ逃げ出すが、三浦、上総の武将によって退治される。この話は、後に『殺生石』の話へと続いて行く。

  • 15

    土蜘蛛

    土蜘蛛の精が夜な夜な源頼光をなやませ、病にかける。家来の渡辺綱と平井保昌がこの土蜘蛛を退治するという狂言である。この演目は壬生狂言の代表的なものの一つである。土蜘蛛の撒く糸が殊に観客の目をひき、衣装も豪華である。土蜘蛛の糸は持っていると厄除けになるといい、またその糸の芯(鉛玉)は、財布に入れておくと「お金がたまる」などといういわれがある。

  • 16

    道成寺

    僧・安珍が清姫という女に執心され、紀州(現・和歌山県)の道成寺に逃げ込んで釣鐘の中へ隠れる。 追って来た清姫は、女の情念をもって蛇に変化し、この鐘に巻き付いて炎を吐き、安珍ともども鐘を焼き尽くした、という伝説があった。その後、道成寺に新しく鐘をつくることになった。新しい鐘は、鐘に清姫の怨霊がとりつくことを恐れ、女人禁制にされた。ところが、一人の白拍子が現われ、舞いを舞わせて欲しいと申し出る。この白拍子、実は清姫の怨霊であった…。この話は古来有名なもので、能、歌舞伎などでいろいろ演じられている。壬生狂言では清姫の怨霊を蛇体(鬼)として表現している。

  • 17

    夜鳥

    平安時代、近衛天皇は鵺(ぬえ)という怪物に悩まされていた。鵺は頭が猿、尾が蛇という怪獣であった。これを源頼政と頼政の家来の猪早太が、退治するという話である。この話は『平家物語』に書かれ、謡曲にもなっているが、壬生狂言では綱わたりの芸などを取り入れ、壬生狂言独特の演出がなされている。

  • 18

    橋弁慶

    京の五条の橋の上で、武蔵坊弁慶と牛若丸(後の源義経)が争った話は有名である。童謡をはじめ、謡曲、長唄にもなっている。しかし、その当時、五条大橋は現在の京都、五条通りにはなく松原通りにあった。この狂言では牛若丸が亡き父の供養のため千本の太刀を奪う願を立てた「牛若丸の千人斬り」と、牛若丸と弁慶との出会いを見せている。

  • 19

    花折

    瓢軽な若い僧と供とのやりとりによって、ユーモラスに見せる世話物であり、酒の戒めを説く教訓劇である。僧侶がつけている仮面は、江戸時代の画家・伊藤若沖が奉納したものであり、壬生狂言独特の貴重な仮面である。

  • 20

    花盗人

    「盗人を捕らえてから、縄をなう」のたとえを面白く見せたものである。旦那の供の役が、なかなか難しく、それだけに重要な役目を担う。

  • 21

    舟弁慶

    平家の滅亡後、兄・頼朝と不和になった源義経が弁慶などの家来を従え、西国に逃れる途中、壇の浦で、平家一族であった平知盛の亡霊が現われ、義経を襲う。しかし、弁慶の祈念によって、知盛の亡霊は義経に近寄れず、消え去って行くという話である。能、歌舞伎でも演じられるが、壬生狂言では船頭や知盛の演技が、舞台を海や舟に自在に見立てる独特の演出がなされている。

  • 22

    炮烙割り

    毎年、春・秋の壬生狂言延べ10日間の公開中、毎日13時から初番として演じられる。京都では2月の節分に壬生寺に参詣して、素焼きの炮烙(ほうらく)(ほうろくとも呼ぶ地方がある)を境内で求め、家内一同の年齢、性別を書き、寺に奉納するという風習が古くからある。これらの奉納された多数の炮烙をこの狂言で割る。奉納者は厄除開運が得られるという信仰がある。

  • 23

    堀川御所

    源義経の館が、現在の京都、油小路通六条にあった。すぐ西側が堀川であるので、この館は堀川御所と呼ばれた。武将の館を御所と呼ぶ例は、他にもある。源義経が兄の頼朝と不仲になっている処へ、鎌倉より正尊(土佐坊昌俊)がやって来る。実は正尊は、義経暗殺の命を受けていたのであった…。

  • 24

    本能寺

    明智光秀が、主君の織田信長を討つべく、本能寺を襲った。本能寺には小姓の森蘭丸ら数名しかおらず、敗れた信長は自刀して果てたという、「本能寺の変」を描いた狂言である。ちなみに、この当時の本能寺は壬生寺に近く、今の油小路通蛸薬師の辺りに伽藍があった。

  • 25

    棒振

    春、秋の狂言公演の最終日の、最後の演目が、この狂言である。この棒振で恒例の狂言は終止符をうつことになる。壬生狂言は仮面劇であるが、この棒振だけは覆面と赦熊をするだけで仮面はつけず、囃子もかねだけで、太鼓と笛は入らない。また、この棒振と湯立だけは、はやし言葉がはいる。大念佛講全員が素面で舞台に並んで扇子を持ち、かねに合せて「チョウ、ハ、サッサイ」と棒振をはやす。この棒振は一つの儀式であって筋書きというものはない。この棒振によって厄が払われ、悪病にかからないと信じられていた。

  • 26

    紅葉狩

    名将の誉れ高い平維茂は、狩りに来た途中、一人の美女に魅せられて酒宴をし、毒酒をもられるが、神のお告げで鬼女であることを知らされ、授けられた刀でこの鬼女を退治する。謡曲で有名な物語であるが、壬生狂言では神の代わりに壬生寺の本尊である地蔵尊が維茂を助ける。 壬生狂言の演目の中で、歴史が古く、格調高いものの一つである。

  • 27

    山端とろろ

    山端は京都の東北にある地名であって、八瀬、大原、比叡山に行く道にあたる。かつてこの山端には茶屋が何軒もあり、今でも山の芋をすった、とろろ汁を名物として食べさせる店がある。この狂言は山端の茶店で起きたユーモラスな話であるが、「盗んだ物は身につかぬ」ことを教えたものである。

  • 28

    湯立

    壬生寺の鎮守・六所明神の儀式が壬生狂言に移されたもので、神前に行われる湯立をそのまま春の狂言最終日に一回だけ行うことになっている。湯立は神前に釜をすえ湯をわかし、巫女が笹の葉束にこの熱湯をつけ、参拝者にふりかけて清める神事である。しかしこの狂言では巫女は後ろに控え、神主がそれをすることになっている。寺の大念佛に神事が入るのは大変珍しく、特徴をもつ。またこの湯立と棒振にだけ、はやし言葉が入る。 湯立では「明年の、明年の」と囃すが、これは来年の狂言も変らず行われるよう祈願し、「明年も、明年も」と唱えたものがいつの間にか言い誤ったのではないかと、推察されている。

  • 29

    夜討曽我

    曽我十郎、五郎の兄弟は、父の仇の工藤祐経が、源頼朝が催す富士の巻狩りに来ることを知り、狩り場に忍びこんで遂に仇を討つ、という狂言である。狂言の前半は兄弟の孝心とその家来の忠誠、後半は勇ましい夜討ちの場面である。

  • 30

    羅生門

    平安京(現在の京都市)の中心の通りは朱雀大路(現在、壬生寺のすぐ西側の千本通りにあたる)と呼ばれ、その南端に羅生門・(羅城門)があった。 これが平安京の正門である。現在も地名が九条通りに残り、門の跡は公園になっている。この門は建てられて間もなく、荒廃し、盗賊などの巣窟になったという。